1月17日仏時間16:30-19:30にかけて、Agathe Novak-Lechevarier主催によるセミネールが開催されました。
2023-24年度初回セミネールの内容は、『ウエルベックを読む Lire Houellebecq』(スラットキン社、2022年)の著者であるラファエル・バローニ(Raphaël Baroni)氏による「作者が分裂するとき──ウエルベックと小説的多声 Quand un auteur divise. Houellebecq et la polyphonie romanesque」と題された講演と質疑応答です。
●ラファエル・バローニはスイス・ローザンヌ大学の准教授で、ナラトロジーを中心とした文学理論を専門としており、主著に『物語の緊張 La Tension narrative』(スイユ社、2007年)、『時代の作品 L’Œuvre du temps』(スイユ社、2009年)、『プロットの核心 Les Rouages de l’intrigue』(スラットキン社、2019年)があります。したがってウエルベックの直接の専門家ではありませんが、大学での教育活動の生徒にはウエルベックの文体論に関する優れた研究書『ウエルベ゙ックの「文体」について』(ローザンヌ大学出版、2015年)を著したサミュエル・エスティエ(Samuel Estier)がおり、『ウエルベックを読む』もエスティエとギャスパー・トゥラン(Gaspard Turin)の共同研究の成果と記されています。
バローニはまずウエルベックの受容について分析します。例としてAmazonレビューの評価を参照しながら、その評価が分散していることを指摘し、その理由を作品の性質である多声性に求めます。つまり、ある種の固定的な言説ならば、その評価は二分するはずである。ウエルベックの小説には、複数の言説・ポジションが用意されているが故に、読者の反応はさまざまに分散するというのです。
続いて、スタンリー・フィッシュの議論を経由することで、作品の声そのものを問います。単純化すれば、作品の登場人物が語っているのか、作品自体が語っているのか、それとも作者が語っているのか、という問いの提示です。この問いかけから、問題系は言説(ディスクール)へと移行し、バフチンとアラン・ラバテル(Alain Rabatel)が参照されます。ここで問題となるのは、言説の出発点(と宛先)であるのですが、バローニはバルトの議論(「作者の死」)へ言及することで、声の起源への遡行の不可能性を提示します。
次にバローニは、ミエク・バル(Mieke Bal)による、この声の起源が必ずしも人でない(テクストであることもある)という留保のもとで、しかしながら声がもたらす話すこと/話されたことという(言語的)「行為」には応答責任responsabilitéが付与されるという議論を引用します。つまり、声に着目した時、その出自は必ずしも(理論的には)明らかにされないが、少なくとも声がもたらす言語行為(なにかを話しているということ)に着目すれば、そこには行為の責任問題が否応なく前景化されるはずだということです。
バローニは次節の例証としてモリエールの喜劇『ドン・ジュアン』を取り上げます。原作をもつこの作品を、モリエールの手によって「社会の問題や変化の時代における価値観の変遷」について語るようになった作品と捉えることで、『ドン・ジュアン』の受容は複数に位相化されるわけです。それは作品のメタ的解釈のみならず、どこまでがモリエールの考えで、どこからが登場人物の声なのか、見分け難くなるという現象の端緒でもあります。
したがって、ここから議論はウエルベックの声の問題に移行します。メディア人としてのウエルベック、現実の人格(と目される)ウエルベック、そして映画や『地図と領土』に登場するウエルベック。これらを並べ、バローニは多声性を登場人物の問題だけでなく、現実と虚構の次元で論じます。
ついで、バローニは議論を多声から言説へと移します。例えば「子供をもつより、犬を飼った方が良い」という言説の解釈は、それ自体が多義的で(皮肉か、本気か、それとも人生における経験からの談話か)、決定し難いものです。バローニは、そうした解釈を多声の問題と結び付け思考するジェローム・メゾズに難色を示します。バローニにとって、メゾズの議論は虚構的遊戯のきらいが強いからだそうです。そしてまた、バローニはウエルベックのメディア的失態(ミシェル・オンフレとの『市民戦線』における対談や、ポルノ映画出演未遂)を引き合いに、作家はそれほど戦略的でも計算高くもないと断じます。
バローニが注目するのは、『公共の敵』で作家自身が用いた「歪んだ鏡」という表現です。さらに、バローニ自身のウエルベックとの邂逅を振り返りながら、彼自身そして彼の作品の多くが再読を促すような奇妙さを携えていることを確認します。まとめとして、作品群の中におけるいくつかの形象の進化(理想としての女性像、自伝性、物語空間の複雑さ)に言及することでバローニは、しばしば錯綜しがちなウエルベックに対する受容の姿勢に一定の観点の提言を試みたと言えるでしょう。
