試訳
すべては実に貧しく、ほとんど満足のゆくものではなかった
成就しなかった夢々、それは寄生虫のごとく
皮膚の下へ入り込み、うごめき、痙攣する
思い出はあまりに少なく、本物の瞬間もあまりに少なかった。
こうして私たちは、大きな掬い網で拾い集める、
満たされることのなかった私たちの肉の残骸を、
苦しめ抜かれ、かつては感覚をもっていた私たちの肉は
夕暮れの柔らかさのなか、消えゆく速度はゆっくりと
それから最後に計器が止まる、
それでもついに手は届かない 諦めの境地には。
あらゆる葬儀がわれらに科す拷問はカトリックの典礼の時分に耐えがたきものに達する。カトリック教会は死を否定せず、むしろ死に固執し、死に耽る。われらの肉体は束の間に脆く朽ちていくと諭すこと、それ以上に教会を喜ばせることはない。しかし死は、教会にとって二幕から成る短い悲劇の第一幕にすぎない。第二幕の冒頭にイエスが現れ、死に勝利し、そして万事が順調となる。もはや必要なのはただ永遠の生命を受け継ぐためにキリストを追い求めることだけである。「もしキリストが復活しなかったなら、われらの信仰は空しい」聖パウロは、彼特有の率直さをもってそう説く。彼は楽観とともにこう続ける。「キリストは復活した。われらも皆、復活を遂げる者である」。では、この棺に横たわる者は何者か。われらはその者の生前の姿を知っていた。その者はいまも現実に生きている。死んだように見えるが、ただ少し眠っているだけなのだ。
事実、われらはそれを信じ、儀式のあいだは絶対的に信じる。そしてわれらを包む慰めは完全なものとなり、そのときわれらは真なる喜びのひとときを通過する。だが数時間、いや数分もすれば、下降という圧倒的な現実の衝撃を受け、われらはその痛みでよろめく。そうではない。われらが愛すこの死体はもはや復活することはない。その運命は腐ることであり、それぞれの肉片は腐敗し崩れ、最後には骸骨しか残らなくなる。それもまたぼろぼろに砕け、ついには塵となるだろう。
埋葬は救いようのない絶望にしか導きえず、それと同じごとく死者の墓を繰り返し訪れることは、残された者――その者が十分な想像力を持ちうるなら――を、奇妙な希望の輪郭を描くよう導きうる。結局、約束は明快ではっきりと述べられている。肉体の復活という約束。結局、遺伝子コード、あるいはこの類の何かを知るだけで十分である。そしていま、われらはここにいる。この平穏な墓地のただなかに、棺や死体が眠る場所を前にして。この身体が再び形を取り戻し、その墓から出て、われらのもとで再び生きるために戻ってくることは本当に考えられないことなのか。死人が死の群れから起き上がり、二本の脚で歩き、生者たち、兄弟たちのもとに戻り、再び暮らし始めるのは本当に不可能なのか。ひとたび創造されたものが、ふたたび創造されることは考えられないのか。ひとたび生きたものが、もう一度生きることは考えられないのか。墓地の門をくぐるたび、墓の前でひざまずくたび、われらの深奥で誰にも告げることができない希望を育んでいる。
私はあちらこちらを歩きまわる、
抽象的な白さのなかで途方に暮れて
孤独が私に穿つ
それでも大丈夫だと繰り返す
私は無へと向かってゆく、
終わりはきっと静謐。
出ていくのは 万事に嫌気がさしたから
生きてる連中にだ、すごく少ない例外
薔薇色の屋敷に続く道が見えていたと思っていた
乗り込む準備はできていたつもり、
でも屋敷は空っぽで、その入り口はしまっていた。
いや、この人生は十分じゃない、僕らの夢をこれっぽっちも詰め込められない。