2024/03/12 「世界は、かつてないほど、均質で安定しているように見える」他(『幸福の追求』)読解

試訳

世界は、かつてないほど、均質で安定しているように見える。9時の太陽はなだらかな坂道をゆっくりと滑りゆく──古い建物と新しい建物は目立った敵意も見せずに隣接している。人類の成員たる僕は、ベンチに座っている。庭園は最近新しくなった──泉が設置されたのだ。ベンチの上で、僕は自分が人間存在なのだと強く感じる──泉を前にした、僕という人間存在を。

現代様式の泉である──灰色の半球体間を水が流れる──緩慢な速度で、水は半球から別の半球へと落ちていく。球体間では、水はその表面を伝うだけだった──しかし建築家の選択はより繊細であることが明らかになる──水は徐々に上方の半球を満たしていくのだ──満杯になると、ゆっくりと下の半球へと滴り落ちる──僕の目には揺れ動くように映る時間の果て、一挙にすべての容器が空となる。それから水はまた流れ出し、このプロセスが再開される。
人生の隠喩と言えるだろうか。僕はそうは思わない。おそらくきっと、建築家は不滅の運動についての自身のビジョンを提示したかったのだ。他の多くの建築家たち同様に。


3月11日金曜日。18時15分。サルジュ

ホテルで横になる──歩き疲れた後の、筋肉の休息──筋肉の火照りは激しいが、しかし心地よいものだ。
西洋的で、感傷的で、原始的な私は、本当の意味では仏教に共感できない(というか、仏教が意味するものには──知性に導かれた、肉体についてのその忍耐強い研究──ほとんど科学的なその研究は、肉体について、肉体の反応について、そしてその反応の利用についてまで及び、神秘的かつ実践的な展開をみせた)。
別の言い方をすれば、僕はロマン派のままであり、飛翔という(肉体から切り離された、精神的で、純粋な飛翔の)考えに陶酔し続けているのだ。僕は貞潔、神聖さ、無垢というものを重んじている──涙の贈り物とイイススの祈り【キリスト教におけるヨガ的なもの】を信じている。仏教はより知的で、より効果的なものだ──しかし、僕はそれにのめり込むには至ってない。

僕はベッドの上に横になり、筋肉は休んでいる──すると感じるのだ、若かった頃のように、自分が際限のない感情の流露に身を任せる覚悟ができたのだと。


対決

ぼくたちにこんなにもたくさんの愛が必要なのは、誰のせい?
すべてが商取引されるこの世界
心理学者と、その他全員が
受け入れてほしいと思っているこの世界に
ぼくたちが根っから適応できないのは?

ぼくたちにこんなにもたくさんの夢想が必要なのは、誰のせい?
ぼくたちの魂【プシケ】のいまだ定まらざる部分が
せいぜい四、五個の列挙された欲動を
管理して調和させることに
とどまることが永久にありえないのは?

ぼくたちを超えたところにあり、ぼくたちを前へと引っ張る、と同時に休息の場でもある何かを、
そんな何かを信じることがぼくたちに必要だとして、
絶対に定量化できない幸福がぼくたちに必要だとして、
心のうちで芽生え、不測の事態を易々といなし、
心のうちで成長し、ぼくらの存在に価値を有用性を譲れない意味を与える内的な力が必要だとして、

また同時に自らを罪人であると感じ、
自分自身以上の存在でないことに屈辱と不幸を感じる必要がぼくたちにあるとして
自分が人間であると感じるためにこれらすべてが本当に必要であるとして、
どうする?

諦めなければならないときが来た。