2025/11/08 「(僕はダックスフント犬について語っていた、)」他(『最後の海岸の構成』)読解

試訳

僕はダックスフント犬について語っていた、
あの頃
何か唯一の意義というのを確立したかった
(新しいパラダイム、本質的な計画)。

僕は哲学的な飢えに満ちていたようだった
草むらで
庭で過ごす僕の感傷的な午後、
空がどこまでも広がっていた。


生に つねに衰えゆく部分があるのだと知るのは、
すべての道が閉ざされた部屋へと通じるときだ
(私は知らなかった、自らのうちに
生き続けようとするこの恐ろしい執念があることを
たとえそれが あらゆる喜びからも、
あらゆる快楽、あらゆる安らぎからも切り離されていようとも
この愚かしく目に見えない力が
あなたを無理やり生かし続けるのだ
一瞬ごとに 衰退の証拠が
いっそう明らかになっていくというのに)


我々の朝を満たす矛盾のなかで
我々は息をしている、本当だ、そして空は穏やか——
しかし我々は生があり得るとはもう信じていない、
自らが人間であると心からは思えなくなっている。

幼少期が終わり、手札が配られる——
多くの慣れと諦めゆえに、
我々は情熱の叫びを押し殺した——
我々は勝負の終わりへと向かっている。

埃が灰色の地面にくるくると、揺れ動く——
不意に突風が吹き、その空間を清浄にする。
我々は生きたかったのだ、その名残はある——
我々ののろまな身体は期待のなかで硬直している。


同じ木の枝を飽きずに追いかける小さな白い犬である、
あるいは日曜のミサでわざとらしく泣かず淡々と唱える黒衣の老いた司祭であること——
要するに、信仰を持つこと、それが些細なものであれ、あるいは崇高なものであれ、それはまとまった仕草を持つということである
まるで馬鹿げた踊り、いわゆるトルコ舞踊のような、質素な踊りのように
努力せずに、ほとんど習わずにして、あまり考えずに踊れてしまう——
言ってしまえば、反復がもたらす円環的な不動の幸福に到達する。